TRAVESSIA

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臨床心理学の道へ


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 幼少の頃、ふと「私はなぜ生まれてきたの?どうして生きているの?生きているこの世界って何なの?」…といった疑問が自分の中に湧きあがりました。
そして、その日からずっとそのことが頭の片隅にあり、ことあるごとにふっと思いにふけるようになりました。読書が好きだった私は色々な本を読みましたが、答えは出ないままでした。
 そこから派生するかのように成長するに従い、目に見えない「こころ」というものに関心を持つようになりました。
 やがて、「こころ」を扱う「心理学」という学問があるらしいということを知りました。これは面白そうだと思い調べてみたところ、一口に心理学といっても色々な種類があることが分かりました。
 中でも、「臨床心理学」という分野に、私は強く惹きつけられました。目に見えない「こころ」が、病気という目に見える形で現れる…
 そのメカニズムを追及していけば、「こころ」について理解を深めることができるのではないか?と考えたのです。

 一方自営業の家で育ち、いわゆる「会社員」になるというイメージを全く描けなかった私は、漠然と将来専門的な職業に就きたいと思っていました。そんな私にとって、心理療法家やカウンセラーという職業はとても魅力的なものでした。
 進路を決めるにあたり臨床心理学が学べる大学を探したところ、早稲田大学に「人間科学部」という学部があることを知りました。
 また、「人間科学」という「ひと」について多面的科学的アプローチを行う学部として、国内で2番目に設立された比較的フレッシュな学部であると共に既にある程度の年数を経過し、様々な分野で実績を上げていました。
 所沢の豊かな自然の中で臨床心理学だけにとどまらず、色々な角度から学べる点も大きな魅力の一つでした。そのため地元和歌山を離れ、早稲田大学に進学することを決めたのです。


大学進学・認知行動療法との出会い


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早稲田大学 人間科学部 人間健康科学科へ進学    専門は 臨床心理学(認知行動療法)

 『人間科学』の使命は人間に関わるあらゆる問題をひもといて、私たち人間が環境を含めて互いに豊かで快適であることの探求を行うことと定義づけられています。心理学はもちろん、人間工学から生命倫理といった多面的で豊かなアプローチと柔軟なカリキュラムによって、人間を多面的に観ることを意識づけられました。

 2年生の時に選択した授業で「認知行動療法」に出会いました。「認知行動療法」は、臨床心理学の中でも比較的新しい治療法であり、最近でこそ2010年4月の診療報酬改定により健康保険が適用になる等、日本国内でもその認知度は上がってきましたが、当時はまだあまり一般的に知られてはいませんでした。
 認知行動療法とは、【「個人の行動と認知」という目に見えるものに焦点を当て、そこに含まれる行動上、認知、感情や情緒、そして動機づけといった諸問題を合理的に解決するために計画され構造化された治療法であり、自己理解に基づく問題解決とセルフコントロールに向けた教授学習のプロセス】であると定義されています(坂野,1995)
 「こころ」という見えないものに対して「表出している症状」という目に見える部分にフォーカスし、科学的にアプローチを行い短期間で治療の成果を上げることができるその手法に衝撃を受けるとともに「私が今までずっと求めてきたものはこれだった!」と確信しました。

 3年生で希望通り臨床心理学専攻に進み、日本における認知行動療法研究の第一人者である坂野雄二先生(現:北海道医療大学教授)のゼミに所属。
 臨床心理学における科学的アプローチと検証について、徹底してご教授いただきました。卒業研究は、「慢性疼痛患者の認知的特徴について」。
 日本では痛みに関する完成されたスケールがなかったことから、アメリカのスケールを日本人に合うようにアレンジ、横浜労災病院心療内科にご協力頂きデータ収集を行い、その優位性の検討を行いました。
 患者様に直接接するのではなく、ドクターを通じて質問紙にご記入いただいたのですが、いざ実際の患者様に記入していただいた質問紙を1つ1つ見せていただくと、本や論文で見たるのとは全く違う。患者様1人1人それぞれに違った物語があり、そこから生み出された痛みや苦しみが、まさに「今、ここ」に存在する「リアルなもの」として、ひしひしと伝わってくるのを感じることができました。
 また、精神科専門の病院で研修も経験しました。初めて臨床の現場に触れ、患者様と直接接する機会を得たことで、そこでも同じ病気であっても、その患者様1人1人そこに至る経緯や持っている背景がことなっていること、それを理解し1人の人間同士として対峙することの大切さについて身を持って感じる機会を得ることができました。
 これらの経験を通して臨床の現場において、生の患者様と触れ合うことに大きなやりがいと希望を見出し、学部卒業後すぐ現場に出たいという思いを強くもつようになっていきました。
 そのことを坂野先生に相談したところ、当時 唯一国(労働省)の認定資格であった「産業カウンセラー」を取得するようにとのアドバイスをいただき養成講座を受講。在学中に資格取得をすることができました。
 養成講座のカリキュラムには、来談者中心療法の基本的な手法についてのロールプレイングが相当な時間数組み込まれていました。大学ではそのような実技を行う機会がなかったことから大変貴重な学びの場となり、結果カウンセリングの基礎であるラポールの形成や傾聴について、文字通り「体得」することができました。このことが後の私のキャリア形成に大きく関わっていくことになります。


不安・抑うつ専門クリニックでの経験


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 坂野先生からご紹介いただき念願が叶い、卒業年の2月より東京都港区赤坂の不安・抑うつ専門クリニックにオープニングスタッフとして入職。
 元々名古屋でクリニックを開業されていた先生が、当時まだ一般的に知られていなかったパニック障害の治療に力を入れその成果を上げておられたところ、全国から患者様が来られるようになったため、交通の便の良い東京都心部に第2のクリニックを開院することになり、私がその診療補助として入職させていただくことになりました。
 診療補助としての業務は、主に初診時のインテーク面接や心理テストの実施等でした。開院当初は元々名古屋に来られていた患者様が中心で、比較的時間に余裕があったことから、その間理事長先生からパニック障害という病気についての説明や、インテーク面接の仕方や心理テストの解説、薬物についてのレクチャーなどマンツーマンでご指導いただきました。
 その結果、徐々に仕事にも慣れ、特にインテーク面接については患者様に対するきめ細やかなヒアリングと、わかりやすい記述を理事長先生から評価していただいき、とてもうれしかったことを今も良く覚えています。
 一方で、理事長先生がテレビや新聞、雑誌、書籍など、様々なメディアから取材を受けるようになり、それに比例して患者様の数は急増し、多い曜日には1日70~80名の来院者数を誇るまでになりました。
 文字通り目の回るような忙しさでしたが、日々多くの患者様がどんどん症状が良くなっていかれる過程を目の当たりにすることができ、それが自分のことのように嬉しく充実した日々を送らせていただきました。
 理事長先生は名古屋での診療もあるため、それ以外の曜日は日本の精神科・心療内科界を牽引する先生方が日替わりで診療を担当してくださっていました。
 先生方は皆さんとても温かく優しいお人柄で、私のような大学を出たばかりで何もわからない者にも分け隔てなく、とても親切に接してくださいました。
 診療の合間や終了後、病気や薬物についてなどの専門的なことから学生時代や留学時代などのプライベートに近いことまで色々と興味深いお話を聴かせていただきました。
そんな先生方と、今も引き続き交流させていただき、ご指導いただけるのは、本当にありがたいことです。
 先生方のハイレベルな診療に常に触れることができる環境にあり、各疾患の特徴や患者様への対応の仕方や治療内容(投薬)などについて、直接または間接的に、常に学び・気づきを得ることのできる毎日でした。
 中でも、精神生理学・精神薬理学といった医科学的アプローチの重要性や精神療法との役割分担など、臨床の現場ならではの知識と経験を得ることができました。
 例えば、精神科でも生理的な検査が必須であること。特に血液検査は重要で、甲状腺機能の障害による疑いがあれば、それもチェックするなど、精神疾患と同じ症状を示すものであっても原因が身体疾患にある場合もあることを知りました。
 また、患者様やそのご家族、会社の方のとまどいや、苦悩に向き合う機会もしばしばありました。会社の方に付き添われて受診されている患者様の様子が今でも目の前にありありと思いだされます。「あぁ、この方は幸せだな。とても人を大切になさる会社に勤めておられるのだな」と思う一方で、「でも会社の方もどんな病気かわからず不安に思っておられるのだな。この方の不安が先生の説明で払拭されるといいな」と感じました。これらの、クリニックでの多くの貴重な経験が、今の私の大きな礎となっていることは間違いありません。
 その他、患者会や研究会の運営や都民講演会の企画・開催と幅広い業務に携わる機会を与えていただいたことで、企画力や運営力といったものを身に着けることができたように思います。

 その後、大学時代に研究していた慢性疼痛の研究を続けたいという思いが強まり、大学院への進学を希望するようになりました。
 そこで、大学院進学の学費貯金と勉強時間確保のため、思い切って地元和歌山の実家に戻ることにしました。

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